日本の英語教育が「ダメ」な理由をカラオケにたとえてみた

誤解を避けるため予め書いておきますが、私自身は日本の英語教育がダメだとはあまり思っていません。むしろ、日本の英語教育は以下に述べるようなとんでもない悪条件の中で、よくぞこれだけうまくいっているものだと感心しています。不幸なことに学校英語とはあまり相性が良くなかったという人も少なくないでしょうし、現状のままでよいと考えるわけには行きませんが、でもだからといって、例えば英語教員の4人に1人がTOEICで730点以下だからというような言説は全く矛先が間違っていると考えています。以下では英語教育、特に学校英語や英語教員を批判する人々が見落としたまま議論を進めてしまっている「ネイティブ環境」「ESL環境」「EFL環境」の違いをカラオケにたとえてみました。ここで言うESLとはEnglish as a Second Language、EFLとはEnglish as a Foreign Languageを意味します。

それでは、たとえ話、スタートです。

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例えば、こんな国があるとしよう。A国では、ほとんどの家庭にカラオケ機器が普及しており、国民は毎日毎日カラオケで朝から晩まで歌っている。そしてカラオケで歌うことは当たり前というよりもむしろ無意識にやっていることであり、それが訓練を必要とするものであるという意識は全くない。

そして、こんな国があるとしよう。B国では、カラオケが人間同士のコミュニケーションに非常に重要であると国民全体が理解しており、至る所にカラオケボックスがある。そしてその気になれば毎日、何時間でも、非常に安い値段で国民全体がカラオケを楽しめる。でも上手く歌うには、それなりに練習しないといけない。

さらに、こんな国があるとしよう。C国では、カラオケを上手に歌うことは理想だけれど、日常の人間同士のコミュニケーションにはさほどの重要性がないと国民全体が考えており、カラオケボックスもさほど普及していない。そしてカラオケを歌うには結構なお金がかかるし、毎日いつでも自由に楽しめるという状況にはない。

B国には、カラオケ機器を所有している家庭や、両親のどちらかがカラオケ機器を所有している家庭の生まれであるなど、カラオケの上手い家柄に育った人や、カラオケを上手く歌えるように子どもを育てることが理想的であると考える人がたくさん暮らしている。学校内にもカラオケボックスがたくさんある。

C国には、カラオケ機器を所有している家庭はほとんどない。でも国民の中には歌うことに関心があり、また歌のセンスがある者も一定割合いる。最近、A国やB国を真似して、小さい時からカラオケの練習をさせようと必死になる親も現れてきた。でも学校や社会でカラオケはまだ十分普及していない。

C国の学校ではカラオケの授業がある。ここで教える音楽教員は、教員としての経験は積んでいるが、お国柄もあってか、カラオケはさほど上手ではない。それでも熱心に歌い方を教える教員は決して少なくない。しかし残念なことにカラオケボックスには40人近くの生徒がおり、1人1人が歌う機会も少ない。

A国の学校には、正規のカリキュラムとは別に、カラオケ教室が常設されているということがよくある。B国からの移民や、C国から短期留学研修などでやってくる人々は、まずはこの教室で練習することが多い。

A国に生まれた者の一部が、B国やC国へカラオケを指導するためにやってきて、定住する。B国ではカラオケボックスも普及しており、A国出身者もそれなりに楽しく過ごせるし、B国の人たちとも交流しやすい。しかしC国ではなかなかその機会もなく、A国出身者は時折肩身の狭い思いをする。でもカラオケを教えることでC国で稼げるということは否定できない事実。

C国にはA国やB国へ仕事や観光で行ったことのある者が多数いる。その一部はカラオケの楽しさを覚えて帰国し、自分自身もっとカラオケがうまくなりたいと思うようになる。中にはC国民にカラオケを広めようと草の根レベルで努力しようとする者もいるし、C国内に暮らすA国民と積極的に関わろうとする者もいる。

C国の人々はなかなかカラオケがうまくならないことに時に焦りを感じる。なぜC国では音楽の授業でカラオケをきちんと教えないのだろう。最近のC国の学校内のカラオケボックスで何が起こっているのかは、よくわからない。でも自分が受けた音楽の授業のことは鮮明に覚えている。

C国でも一部の人は気づいている。カラオケで上手に歌えるようになるには、結局個人の練習が不可欠。B国のように、学校以外でも毎日、何時間でもカラオケボックスで練習できるのなら良い。しかしC国には誰もが十分に練習できるほどカラオケボックスは普及していない。練習しようにも費用がかかる。

音楽教員を批判しても無益。ではどこから手をつけるべきか。一つの解決策として、カラオケボックスがもっとたくさんあると良い。学校にもカラオケボックスを増やし、せめて1クラス20人くらいになれば今よりも1人1人が歌う機会も増える。

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以上、「ネイティブ環境」「ESL環境」「EFL環境」の違いのたとえ話でした。英語に関して言えば、改めて述べるまでもなく日本はC国ということになります。

話の本筋からは外れますが、いろいろと考えるべきことがあります。例えば、一度カラオケのことを嫌いになってしまった人を、再びカラオケに誘うにはどうしたら良いでしょうか。

それから、C国民がカラオケを練習して、A国民やB国民と対等なレベルで唄えるようになるのは至難の技でしょうね。学校教育どころの話ではありません。ましてやA国民やB国民を唄の力で感動させることなんて!

必要悪だなんて言いたくありませんが、1クラス40人を相手にしながら、受験というハードルを越えさせることを目標とし、さらには全国で等しく教えるためには、従来の文法訳読式はある意味で最大公約数であると言えないでしょうか。そして人数が多くなればなるほど最大公約数も下がるでしょうし、逆に人数が少なければ、最大公約数も上がるというのは当然の結果でしょう。

教員の資質向上も必要でしょう。でもそれだけが問題解決に繋がるわけではありません。様々な工夫もいろいろと試みられていますが、結局のところ教員が多忙すぎて、新しい教え方などを試すだけの気持ちの余裕がないのかもしれません。そうこうしているうちに新しい教え方も廃れていきます。

新しい教え方の価値について学校現場で十分な議論ができないのは仕方ないことなのでしょうか。仮に加配がつくなどで効率的な教育環境に近づいたとしても、それをうまく生かすことができなければ結局教員自身が最大公約数を下げてしまうことになりかねません。人手は欲しいけど、必ずしも人がつけば良いというものではないのかもしれません。限られた予算であっても、その使い道は様々考えられます。ひょっとすると硬直化した予算配分制度が教育改革の足を引っ張っていたりするのかもしれません。

カラオケ指導に必要な設備や環境が十分に整っていない中でのカラオケ指導。教員にとっても決して簡単なことではありません。でも工夫次第で学習者の満足度を高めることもできなくはないでしょう。それぞれの教員ができることから少しずつやっていけば良いのではないでしょうか。

それでもやはり、カラオケでうまく歌えるようになることが目標なのに、音階練習ばっかりやるというのも間違っているはずです。しかしこれが仮に最大公約数だとしたら、まずどこから問題解決に着手すべきでしょうか。

いずれにせよ、すぐに問題が解決できるということは考えにくいでしょう。焦らずにゆっくりと考えていきたいものですね。